昭和58年08月16日 大祈願祭
おかげを頂きまして有難うございます。一言聞いて頂きます。昨日でございましたか、総代の久富さんが私しの部屋にやって参りまして、昨日はこの前の梅里先生の所に参りましたと言う話でございます。梅里先生と言うのはここの御庭をおかげ頂いて下さった庭師の先生です。石を扱したら日本一と定評のある素晴らしい庭師です。あぁ昨日久冨さんの話を聞かして貰いましたら、あのう目が見えられなくなったと言うのです。
もう84、5歳にもなられますでしょうか、大変元気なお方でしたけれど、いま目がそして言われることは、合楽の親先生にお願いしといて下さいと、もう一遍合楽の御庭を拝見したい。私しはそれを聞いてびっくりしました。目が見えられないと言うのに庭を見に来るて、どういう事だろうかと申しましたら、いいや目は見えないけれども手で拝見すると、私しはもう驚きました。執念にも似たその心情と申しますか、もう御自分で庭を造るやらこと出来ますまいけれど。
自分が大勢込めたものに対する一つの愛情と申しましょうかね、そういう話を昨日聞かせて頂きまして、私しも思いました、私しも段々身体が弱って、もう目は殆ど見えません、耳も大変遠くなりました。けれどもおかげなことに口だけは達者、ですからこれは私しは例えば、何年おかげを頂くか分らんけれども、今度の病気を境に体質改善のおかげを願っております。そして手も足も動かなくなり、耳も遠くなり、目も例え見えなくなりましても、口だけはこうしてお許しを頂いておるのおですから。
私が頂いて参りましたおかげ。神様から頂くお伝えを皆さんに聞いて頂いて、共々に助かっていきたいと。大きく申しますと、いよいよ和賀心時代、世に問うて行きたい。調べて行きたい。そう思わしてもらい、先だって和賀このお道の御恩に、合楽教会のごひれいは、御理解力によるもんだといっております、私しもそう思います。いろいろな中でも同じ金光教でも、そこそこのいろいろ御流儀がございます、非常に祈念力の強い先生おられて、祈念力によって助かる。と。
本当に言う合楽の場合は確かに御理解力。私が例えば30数年間説いて参りましたお話し御理解は、全部速記で残されておるし、またテープで取らして頂ける様になりましてからは、毎朝のはもう( ? )な層にのぼりましょう。残してあります。それをいま合楽の修行生みな取り組んで、色々と又頂き直しておる、先だってからここから出ました一切信愛論、あれをその中のもう、ごく一部の一部をまぁ纏めたものでございます。いかに素晴らしい、例えば神様の御心を、私しが対してそれを実験し。
それをおかげの上にいわゆる実証して、それを皆さんに聞いて頂くのですから、間違いなくおかげが受けれれるお話であります。ですからそのお話をただ聞いた覚えたというなら、合楽理念をマスターしたと言うだけではおげになりません。でも皆さん自身もそれを実験して下さり、実証して下さり、おかげを頂いて頂きたいとおもいます。私はまぁいうなら教祖様のいわゆる御理解・神誡・神訓、それに取り組ませて頂いて、33遍もこれ以外にありません。
それをあらゆる角度から、まぁ神様のいうなら英知を持って示して下さって。はぁこの御教えがこんなにも深い広い、しかも助かりに繋がるものだと言う事を体験してもらいました。だすから皆さんもそれをやはり実験して下さらなければ、実証になって生まれて参りません。今も光昭、今申しておりました様に、私共のおかげを頂く事の意味、神様にも喜んで頂くおかげ、それはどういうおかげを頂いたら、神様に喜んで頂くかと、御用をすれば神様が喜んで下さる。成り行き日参すれ喜んで下さる。
もちろん御用も日参も大事ですけれども、教えを頂いてその教えを血肉になって、自分の心の中に家庭の中に、それが社会の上にも現して行けれる、金光大神の御教えが今の様に問うわれなければ現代社会に布教する金光教。これは金光教でなからなければ頂けない。世界真の平和と申しましても。ただ恐ろしい戦争は止めよ止めよと、いかに口を酢ゆくして叫んでも。平和が訪れるとは思われません。結局銘々の心から先ず平和な心を頂かなければなりません。いよいよ教祖の教えられる和賀心であります。
とにかく人が助かる事さえ出来ればと、教祖様は教えられたが、人が助かる事さえ出来ればと言う事は。私が助かる事さえ出来ればであります。もちろん私しが独り占めすると言う事ではない。私が助かった、私しの心の光が大きくなれば広くなればなるだけ、広く大きく世の中を明るくしていく事が出来ます。いわゆる自分の心の中に平和な心を頂きたい。今私しも頂きたい、私も頂きたいとみんなが言うでしょう思うでしょうけれども。いうておるだけでは頂けません。
どういう心の状態になる事に精進しなければならないか、教祖様はそれを、天地日月の心になること肝要だと仰せられました。天の心とは地の心とは、日月の心とは、と究明してまいりますと、始めて天地との交流を感じます。天地との?がりを感じます。天地は自由になると下さる程しのおかげにもなって参ります。いつも天地がバックです。天地の親神様の御加護を受けなければ、人間だけではない。
生きとし生ける物全てが御恩恵によれなければなりませんが、ましてや人間私共、教祖天地の親神様は、氏子と呼び掛けて下さる、私共それはあらゆるものへの御恩恵を賜る、下さる神様ですけれども、とりわけ人間氏子に願っておられ、又下さる事は私共は真の人を目指さしてもろうて、真のおかげを頂く事にございます。真の信心真の人とまぁ言われますけれども、その私しは真の人とはどう言う事かと、正直な人に悪い事をせんからというて、あの人は仏様のような人じゃ、神様の様な人じゃというても。
次々難儀な事があるとおおせられます。だからただ正直な人ただ良い人だけではいけない様で御座います。信心しておかげを受けるのは別物とおおせられます。そこで私共は教祖様の御教えを頂いて、その教えにもとずいて生きる生き方。その人を私しは真の人だと思う。信心しとれば真の人ではない。それをまた申しますならば天の心、地の心を対してここを地の心で、天の心でと天地の心にならして貰うと、天地の心を心としての生き方を学ばしてもらう。
大変難しい事の様に思うておりましたけれども。合楽で合楽理念による生き方を致しますと、その気になれば誰でも行じられる、教祖様にここんところをお知らせました。今までの宗教者の殆どが、神様へ接近する接近する。神様を頂くためには、あらゆる火の行水の行、とても人間業では出来ないような行を、して参りましたものですけれども、金光大神はそういう行は嫌いじゃと仰せられた。此方の行は家業の行ぞ、心行、このあとの中にも御座いましたように、心行・信行・家業の行。
信行とは、信心の行、または心で成すところの行であります。それを天なり、地の通りをもって生きる生き方それを皆さんが、それこそ耳に蛸が出来る様に聞いて下さったんですですけれども、私しの言ういつもここはおんなじですけれども、かえったこう美しい心を目指そう、豊かな心を目指そう、限りなく地の心を自分の心として行こう。黙って治める。という例えば生き方を身に着けて行くのです。
先だってから、まぁ、一日おきに病院に通わせて頂いて、いわゆる6時間治療を受ける訳、毎日、隔日に始めの間はまぁこれを一生続けにゃならんちゃ大変ことだなぁ、けれどもまぁ是を修行と思うてと、いわゆる気持ちですからきつかった。ところが段々この頃、隔日に一日おきにお家におります。お広前をさがっておりますから、もうまぁ退屈を感じたり我儘がでたり、それこそ生神金光大神唱え続け、唱えておるようであっても、なんとはなしに神様もう真から通う事の出来ない様な感じでしたけれども。
病院に行っております間は。もうそれこそ切実に6時間と言う、じっとこう寝とる間はもうそれこそ祈って祈って祈り抜かせて頂けれる、時間を感じません。その祈りを確実にさして頂いて、この頃では家にいるより病院にいっとった方が有り難いなぁと思わしてもらう。うんこれはいよいよ有り難い事になってきたと思うて、それこそ泣くまいと思うても泣かずにはおれない様な、まぁおかげを頂いております。
そしたら神様からハイライト、ハイライトと頂くんです。私しゃ英語やら分りませんから何の事か分りませんけれども、はいと言うのは、まぁいうなら超とか段違いと言う風に頂きました。ライトと言うのは光と言う風に頂きました。今まで何拾年間有難い有難いお取次ぎの御用をさして頂きましてけれども。今まで有難いと思うておった有難いとは、段違いの有難さと言うものを頂いておると言う、お知らせだと思いました。人間例えば苦しい、苦しいのだから楽になりたいという願いを持ちますけれども。
私しはお道の信心はその苦しい事、それをしようと思うてという生き方、もう一歩前進する、そこをまぁ今迄の宗教は因縁であるとか、罪であるとかと言う風に説いて参りましたけれども、それは実際は神愛の現れだと分る、それを自分の心の中に感じれる、そこを超えた分言うならめぐりの為に苦しむけれども、めぐりの為に一段と信心を進めて行く事が出来る。一段と心の光を大きくしていく事が出来る。私はお広前を勤めさせて頂いておった時に思うた有難いと、今私しが病院で感じておる有難いというのは段違い。
その光が私しは私しの周辺に縁ある人に上に及ぼさない筈はない。と確信する様になりました。信心の真の信心の世界それは私しの置かれておる一つの定めというものの中に、神愛を悟れせて頂く事だ。例えば一羽の鶏が何かに括り付けられて、その紐が一間あるならその一間真四角と言う所は、もうその鶏の世界です。それをもっと向うの方には沢山餌がある様な気がするもんですから、その柱千切れる様に引っ張って、バタバタして向こうに行こうとしておるのが、信心のない人達の姿じゃないかと思うんです。
より広い所へ、より楽な所へというふうにね、私しは信心とは自分のおかれておる定めの中にです、そんなら一間真四角なら一間真四角のなかに、餌のないところに鶏は繋ぐはずはありませんもんね。神様がおかげを頂けない所に置かれるはづありません、どういう中にあってもそこをずっとあせってみると餌がある。餌があればそれで、卵を産み続けれ事も出来る。それがいうなら世のため人の為にもならない筈はない。
ここをくいっというおかげ頂きたい頂きたい苦しいそれを修行と言う様ならば考え方から、そのぶろぐのなかに資料の中に、切なる神様のいうならば、願い、悲哀、悲しいまでの願いが、私共一人一人の上にかけられてある、それを悟った時に私しは真に有り難いと言う心は生まれて来るんだと思います。どうぞ合楽に御縁を頂かれた皆さんが、合楽で言われる合楽理念と申しますか、とにかく一言でも自分の信心の筋金にして、それに私はやっぱり決さんと、信心は決し抜かなけゃいけません。
そこから又細々ながらでも、天地に通う交流する道が開けて来る。それを生涯かけて踏み拡げて通るのが繁盛じゃと教えられます。踏み拡げて通れるおかげを頂いて、今日のお祭りの芯でいわゆる諸事繁盛も、五穀豊穣もそういうおかげに繋がる信心とは、先ずは天地の心を心としての願い、先だって金光様のお祝詞を聞かせて頂いたんですけども。一切のものにお世話になると言う事を、いつも教えられておりましたが。
今度のお祝詞の中では、そのお世話になる心を基礎の、お礼を基礎としての信心と言う意味の事を、おおせられております。私しは思います。どうでも天地の心を心としての土台にしての、いうなら諸事繁盛であり、五穀豊穣であり、お互いのねがいが出来る時、初めて天地に交流する。天地に通う道が付いてくると思います。しかもその道を細うても、それを踏み拡げて行くのが、繁盛と仰せられる、繁盛のおかげになる、それがいうなら子にも孫にも伝わっていく。
今日若先生が斎主務めて、お祝詞を奏上さしてもらって聞かせて頂いて、始めから最後までもう感動、もう声が出るほどに感動致しました。あのようにして信心が継承されて、伝わって行くと、もう親としてこんなに嬉しい有り難い事はありません。私共の信心が一代仏に終わらんで済む様な信心、はらぁもうお爺さんのときにはこういうおかげも頂いたあれものおかげも頂いただけでは子供に伝わりません。
ほんとに子供に伝わる信心、孫に伝わって行く信心。いわゆる末広がりのおかげになって行く信心をいよいよ身に着けたい。それにはまずは天地の心を心と自分の心情の上に頂いて行く実験です。実証が出来て参りますとそこから信心が楽しみに、喜びにいうならかきもえました、心の光も次第に大きくなって、それが周囲周辺に及んでいく。おのずと和賀心と一遍に和賀心が生まれるとは思われません。
いつの間にか言うなら成り行きを尊ぶ。大切にさしてもらうという、生き方を身に着けてまいいっておりますと。いつの間にか自分の心の中に、和賀心が育ってくる、同時におかげの道も伴のうてくる開けて来る。いよいよ繁盛のみかげを頂いて、いわゆる金光教の信心を世に問わしてもらえる。世界真の平和、世界総氏子身の上安全を、祈らせて頂くと言う事は、先ずは自分の心から、自分の心の中に、先ず平和な心を頂く事の精進が第一だと思います。
御挨拶にかえさせて頂きます。